【小説】Queen(1)【チェス擬人化】
1話目にあたるKingのお話はこちら↑から。
2話目はQueenのお話です。
先王がエルネストを城へ招くまで、エルネストは、自分が城下にいる平凡な子供のうちの一人であるということを、信じて疑わなかった。
のちに優秀な宰相として名を残すことになる彼は、城に召喚されるまで街の一角にある小さな煉瓦造りの家で育った。
食うに困るほど貧しくはなく、けれど蓄えを作るほど豊かでは無い。特徴といえば、この家には大黒柱になるはずであろう父がいなかった。エルネストは、母とふたりで生きていた。
エルネストは、父の姿を知らない。物心がついた時から家にはいなかったし、写真の一枚だってなかった。
一度だけ、母に父のことを聞いたことがあったけれど、何も言わず穏やかに微笑むだけの母に、エルネストはそれ以上なにかを聞くことはできなかった。
ただ、母は、口を閉ざしてしまったエルネストに、あなたの父はとても頭がよく、立派な方だとだけ言った。
エルネストの母は、優しくて穏やかで、野に咲く花のように穏やかだった。
病弱な母は、エルネストが本を読み、新しい知識を蓄えるたび彼のことをよく褒めた。
『あなたを誇りに思うわ、エルネスト』
母のそんな言葉を聞きたいがためだけに、幼い彼はたくさんの本を読み、覚えたばかりの学問を母に披露した。けして、勉強が好きなわけではなかったけれど、与えられるその言葉が、頭を撫でる手の温かさが、エルネストにとってはなによりの褒美だった。
けれど、十になる直前、母は死んだ。
花が命を散らすように、あっけない死だった。
母が死んでから、けして裕福ではなかった家からはパンが消え、次に薪が消えた。
寄る辺のない、幼いエルネストを助けてくれる者はなく、皆彼が街へ出ると哀れみの言葉をかけ、そして目が合うとそそくさと家へ戻った。
食べ物が消え、家の灯りがなくなり、生きるためにエルネストはわずかな家財を売った。
小さな宝石は毎日の食事に変わり、最後に残ったのはたったひとつ、母が編んだ毛糸のケープだけだった。
寒さに震えるエルネストは毎晩それにくるまり、長い夜を過ごした。
一つ夜が過ぎ、二つ夜が過ぎ、薄汚れたその布が、冬の寒さに耐えきれなくなってきた頃、エルネストのもとに一人の男が現れた。
豪奢な服を着たその男は、自分を『国王エルンスト・エーヴェルヴァインの使者』だと言った。
初めて足を踏み入れた王宮は、この世のものとは思えないほど美しかった。
大理石の床、アーチ型の高い天井、窓にはめ込まれたステンドグラス。城下にはないものが、そこには全て揃っていた。
なぜ、ここに連れてこられたのか、エルネストは教えてもらうこともなく、そこに暮らすことになった。与えられたのは、今まで母と暮らしていた家よりも大きな部屋と、侍女が二人。着替えも、食事も、もう困ることはなかった。
「エルネスト様、お食事の準備ができました」
恭しく頭を下げられ、エルネストは食卓に着く。並べられた食事はどれも見たことがないくらい豪華なものだったけれど、スープは冷たく、食器が音を立てるたび、広すぎる部屋に音が響いた。
「ごめんなさい、食べるのが下手で」
「いいえ、エルネスト様。これから学んでゆけばよろしいのです」
侍女はそう微笑んでくれたけれど、エルネストはうまく笑えなかった。
少し乾いたパンを温かいスープに浸す……そんな質素な食事が恋しいと、エルネストは思った。
王宮に入って数日、大人ばかりに囲まれて過ごしていたエルネストは、退屈を持て余してついに部屋を抜け出した。見つかれば叱られるとわかってはいたけれど、静かな部屋に閉じこもっているだけでは、気が狂ってしまいかねなかった。
(庭へ行ってみようか、それとも……この広い宮殿をすみずみまで探検してみようか)
出来るだけ音を立てないように慎重に、エルネストは廊下を駆けた。そして、とある立派な部屋の前でひどく興味深い情報を手に入れた。
『ここには、自分と同じ年頃の男の子がいる』
その情報は、豪華な食事や、暖かな毛布よりもずっとずっとエルネストの心を震わせた。
男の子の名前は『ヴィルフリート』
彼は、どうやら長くこの王宮に住んでいて、しかもエルネストの異母兄にあたるらしい。
(お母さんがいなくなって、ひとりぼっちになったと思った)
(でも、今の話が本当なら……その人は、僕のお兄ちゃんだ)
部屋を出るだけでも叱られるのだから、会いに行ったりしたら、ただ事ではすまない。そうはわかっていても、自分にまだ見ぬ家族がいるかと思うと、エルネストは好奇心を抑えきれなかった。
(会いに行こう、ヴィルフリートに)
エルネストは小さな手のひらを握りしめ、静かに部屋に戻った。
決行は、明かりの少ない、次の新月の夜に決めた。